

作家インタビュー
中川 周士
Shuji Nakagawa
木工芸職人
Wood craftsman

作品の根底にあるもの

中川周士さんの作品はアーティスティックでありながら、優れたロジックが垣間見える魅力を持っています。その思考はどこから来ているのか、美しいプロポーションは何からインスパイアされているのか。 その秘密を探るために滋賀の工房を訪ねました。
:本日はよろしくお願いします。 早速ですが好きな音楽のアーティストはいますか。
中川:音楽は、ほぼ聞かないです。 嫌いなわけではないのですが、特定のファンというのはないです。
:仕事中は雑音などはあった方がいい方ですか。
中川:あった方がいいです。
:そうなんですね。 ここは明確に分かれますよね。 無音がいいという人と多少の騒音があった方がいい人と。
中川:いまはオーディオブックを聴きながら仕事してます。
:どんな本を聴いていますか?
中川:哲学系のものが多いです。 最初は『サピエンス全史』を読みたいと思ってましたがあれは上下巻あってとても分厚い本じゃないですか。 学生のころから本を読むのは好きな方やったんやけども、仕事始めてからはさすがに時間が無くて。 それに本は目を使うし、仕事も目を使うんで。 そして出会ったのがオーディオブックだったんです。 イヤホンをしながら仕事してますね。 いま読んでいるのは『3つの幸福』という幸福論の話ですね。 科学と哲学が好きなんで。 Kindleだと吉本隆明さんの本であったり、佐々木康裕さんの『感性志向』や寺山修司さんの『幸福論』など。 これらを読み上げ機能を使って聴いてます。 俺は『工芸志向』という思想を元に活動をしていて、身体言語と論理言語という領域それぞれを使い分けてます。 ルーティンの仕事はむしろ聞いてる方が集中力が上がります。 意識と身体っていうのを分離した方が仕事が進むし長時間やってられるんよね。 逆にチャレンジワーク的な仕事は疲れるので一日のやれる時間が限られるんだけど。
:なんとなく感覚はわかります。 新しい作品へチャレンジするときはノイズなしでということですね。
中川:いや、聞いてんねんけど結局自分でカットしてる。 習慣的にイヤホンから聞こえてきてるけど、(耳に)入ってこない。
:面白いですね。 こういう角度の質問は面白いと思っていて、例えば中川さんが漫画の『アキラ』が好きなんだよね。とかおっしゃったりすると、『アキラ』を好きな人がぐっと中川さんに興味を持つと思うんですよ。 この作品を作っている人を構成している中の要素ってなんなんだろうかというところが気になると思っています。
中川:漫画が好きといったら俺は『アキラ』ではなく『ナウシカ』やったな。 あれは100回くらい読んでるな。 漫画を先に知ってるから映画化されたときに『あ、ここまでなんや』と思った。 あれ、映画化って一冊目か二冊目やん。 *シュワとかあのへんとかが出てくる手前やん。 ドルクとトルメキアの戦争までのところ。 その先がもっと長い物語なんだけど絶対読んで欲しいな。 あの時代にあの事を言ってたことってやっぱりすごいなと思って。 *シュワ ドルク帝国の首都
:環境がテーマですね。
中川:当時海外からは全然注目されて無かったしな。 日本人にしか分からないアニメみたいな事言われて。
:希望はあるんですけど。ラストが絶望じゃないですか。
中川:『私たちは血を吐きながら、繰り返し繰り返し、その朝を越えて飛ぶ鳥だ』 この一節が俺にとって一番大きいですね。 結局みんな求めていくけど討ち死にするのが9割で。 突然変異をいっぱい作り続けていてそのうちのひとつでも残れば次の百年、桶が存在する未来を作るというのが俺の考え方なんですけど、ここはナウシカから影響を受けていると思う。


乖離を埋める作業
:多分ナウシカだけじゃなく他にも多感な時期に読まれていると思うのですが、なにか他に原体験に通じるところがあるのではないでしょうか。
中川:原体験でというと、実は俺色盲やねんな。
:そうなんですか。知りませんでした。
中川:赤色と緑色が見分けがつきにくい赤緑色覚異常というやつで。 昔の色覚検査で、人には見えない数字が見えるし、人には見える数字が見えない。 小学生の時にお寺にスケッチに行って、お寺の壁を緑色に塗ったら友達に笑われた。 でも何を笑われているのか分からないというトラウマがあった。 そのときに思ったのが俺が見えてる世界とみんなが見えてる世界のズレをどう埋めるかを考えたときに、哲学が答えを出してくれるかもしれないと思った。
その辺で興味のあるものが、『人の目驚異の進化』という本を読んだ時に、光の三原色があって、人間の網膜で感じられる色には赤色と緑色が多い。 その理由は人の顔色を見るためらしい。 緊張したり興奮したりするとそれが顔の色として出るから、それを見分けるために人間の目というのは進化した。 青色や黄色を見分ける以上に生存上、重要であったというふうに機能しているのではないかと仮説を立てたわけ。 だから、赤緑色覚異常の人は周りの人の顔色が分からない。 だから人とのコミュニケーションが取りにくいといわれていて結構面白いなと。 体調が悪いと顔に出るから、普通の人同士であれば分かりあえるんやけども、そこが俺には分からない。
例えばクリスマスカラーで赤色と緑色で構成されていてワクワク感というものが醸成されるんやけども、論理的に言えば補色の対比ですごくコントラストがある色で、それがあるからクリスマスが近づくとすごくワクワクするよねというひとつの論理が出来上がるんやけども、赤色と緑色がそんなに差が分からない俺にとっては普通の人と乖離があった。そこを埋めていくにはどうしたらいいのかと学生の頃から考えていて、皆が当たり前の事、常識というものを疑ったり、探求したりということをずっとしていたことが俺の原風景っていうことかな。
:そこらへんが作品のコンセプトとか着眼点に結びついていくということですね。
中川:それが大きいよね。 自分のトラウマみたいな所からスタートするのではなく、哲学に興味を持った時に主観と客観の話になる。 僕に取ってはクリスマスってそんなにドキドキしないよねというのが主観なわけで。 でも他の人のものの見方としたらクリスマスカラーのようなドキドキするような色合いで街が飾られていくものが客観だとしたら、必ずしもそこは一致しないわけで。 それって俺が特別色盲だからということではなく、本当に俺が見ている世界とみんなが見ているであろうという世界が一致していることを証明する方法は無いわけ。
:確かにそうですね。

中川:それぞれがずれたモノの見方をしているわけでその中にぼやっと共通認識というか。 吉本隆明の言葉でいうと『共同幻想論』みたいなものをみんなで支えている考え方がある。
:認識宇宙のあり方みたいな。
中川:そうそう。 そういうことに興味を持ってそれを誰かが本に書いているのではないかと思って哲学の本を読み漁るというのが学生時代だったんやけども、結局ズバリと言い切っている本に出会えなかった。 もう一つ同じように世界を解明する手段のひとつとして、哲学はどちらかというと人間の心の中を含めた世界を解明するためのものなんやけど、人間の外側を解明する道具として科学があって、俺が小学生のころは『アインシュタインの漫画で読む相対性理論』みたいな本が流行ってて、なんかわからないけど(アインシュタインすげぇ)ってなった。光に近づけば近づくほど時間の進み方が遅くなるというのは(ん?それはどういうことだ?)となるんだけどもなんか凄いということだけは分かったみたいな感じで納得していた。
そして情報として知ったのは時代的にそこから20年後やねんけど、科学の世界で量子力学っていう世界が入り込んできて、アインシュタインが行っていることを覆すような論理が世界を席捲し始めて。不確定性原理という数学で証明できない問いがあるということが証明されてしまった。たとえば『シュレディンガーの猫』ってあるやん。この箱の中に入っている猫は生きているのか死んでいるのかフタを開けるまで分からないみたいな比喩があるんやけど、要するに存在確率の雲として存在していて空けた瞬間に存在確率の雲の一点に集中するっていう今までの常識では通用しない考え方がでてきて。
アインシュタインが出てきた時にビッグバンから始まるこの世界のすべての謎をきれいな数式で解明できるであろうという夢がアインシュタインの存在で見えたのが、そのあとそれがひっくり返されて世界はもっと謎だらけで結局解明されないんじゃないかという絶望に見舞われたと。
:でもいま量子論の方が正しいという流れになっていますよね。
中川:そう。 とりあえずいま見えるところだけやっていこうと科学者たちはこの3〜40年ほどやっていて、それがここ10年くらいで実を結びつつあって。 もう一度世界の謎が精度の高いところまで解明されつつある面白い時代がやってきたと思う。 科学というのはモノの世界、つまり存在だけの世界を中心にやってきたのが、人間の心の中、精神の構造含めて大きな論理として解明できるのではないかというのを本を読みながらワクワクしているところです。
:中川さんがそこまで科学と哲学が好きというのは知りませんでした。 作品だけを見てたら辿り着かないですね。
中川:ワークショップをカナダでやった時、これは瞑想に近いと言われた。 たしかに集中していく感じは近い。 『中川さんには木の声が聞こえるんでしょう?』と言われる。 でも聞こえないんよね。 そういう意味では(向こうの人からは)魔法に見える。 木を一万回二万回と割ってきた経験からここを割った方がいいというアドバイスができるのは、経験と論理の共生により支えられている。 だからあたかもパッと割ってきれいな曲線が出た時は魔法のように見えるかも知れないけど、俺は魔法使いではない。 時間の流れに沿わせていくことの中に俺のものづくりが存在している。 前にあるお坊さんと話している時に、瞑想はその場で付き合わせができないから、お互い瞑想の体験について語りあうと。 でもそこにはどんな真実があるかは分からないわけ。 俺らがやってることは物理現象。作ったものが目の前に現れるので、形のないものには委ねられないというか。 瞑想と違うと思うことはそういうこと。


ものを作るセンスを育てる
:中川さんにとってセンスとは何ですか。
中川:ものを作っていて、違和感を感じる時がある。現時点では違和感という表現しかできないんやけども。 その違和感を取り除く作業を繰り返ししている。 おおよそ違和感が無くなった形というのは、俺自身そこでスッと受け入れるし、第三者が見ても美しいというふうに感じてくれる。 もし、仮にそれをセンスがいいというのであれば、違和感や不自然さを感じる能力のことをいうのではないか。
:その不自然さっていう部分は正解がどっかにあると思っていないと無理じゃないですか。
中川:論理的にはそうなんやけど、正解は無限にあるので、どれを選択していくかっていうところによると思う。 例えばこのスプーンなんだけど、今日はみんな木の割れた形を見てくれていると思うんだけど、そこからここへ至る形っていうのは、もちろんスプーンを作ろうという意識が働いていてそれに対してどういう形にもっていくかと考える。 二つと同じものは作れないわけ。

:木を割った感じでこれは桶に使えるなとか、これは別のものに使えるなとかそういう選別から始まるんですか。
中川:例えばこの板なんかはかなり特徴的な形をしてるよね。スタッフにしたら早よ片付けろよと思ってるんでしょうけど(笑) こういうのを目の縁に置いておく。 そうすると、だんだん(これってこうできるな)とか(こうしたい)とかいうのが生まれてきて時間ができた時に実現していく。 最初は何も思わないけどだんだんフォークに見えてくるとかね。 今日わざわざ割るところから体験していただいたのは、そういうインスピレーションの源を感じるという体験をして欲しくて。 ものを作る時ってほとんど自分の心の中から表現という形で外に現出する。 でも僕がいまやっていることというのは外側から自分の中に取り込んでいく作業。 これを毎日見続ける中でだんだん自分の中に入って来てスプーンやフォークになる。 ここ数年この作業を行なっていて楽やなって思うのは、表現って一般的に自分の中から外へ出していくので、自分の持ち分が減っていく。つまり『出力』やねん。 でも俺がやってるものづくりって『入力』なんですよ。 こういうような(自然の形を利用した)カップの場合なんか特にね。
:ずっと置いてあることで陽の入り方の加減で違ってきますよね。
中川:そうそう。 昨日と今日で違うしある日突然入ってくる。 これは俺の20年前の作品集で、 こっちは俺の好きなアーティストの作品集です。 若い時は主に鉄を使って表現してました。 家業が桶屋に生まれて、でもそのまま継ぐのが嫌で大学は美大に行ってて鉄の現代アート活動と家業の伝統工芸活動とを卒業してから同時にやり出したのが最初の10年間です。
:それは知りませんでした。 好きなアーティストの作品を見ることの意味というのは何ですか? 意識、無意識問わず影響を受けるものですか?
中川:もちろん影響されるよね。 さっきの違和感を感じる、感じひんていうのはまだ何が違和感を感じさせるブラックボックスなのか分からないけど、それを構成しているところへ、アート作品を見ることで何かが入っていって見方が変わる。 だから作品を作るたびに違和感を感じる部分というのは変化していくし、これをレベルが上がっているというふうに感じたい。
:違和感を感じるセンスの形がどんどん変わっているということですね。
中川:美しいアート作品であってもお寺であってもものを見るという蓄積の中で違和感を感じるブラックボックスっていうのが成長していって、よりレベルの高い違和感の感じ方に向かっていってくれてると思いたい。 感覚的なところの修養というのは、大学卒業してから親父のところで木工の修行をしていたけどアート作品を中心に置いていた10年間で培ったもの。 つまり1992年に大学を卒業して、2003年に滋賀県に自分の木工の工房を建てたんやけどそこまでの期間やった。 工房を建ててからは仕事をとっていかなあかんから物理的に彫刻をする時間が無くなってしまった。そこから2013年頃まで木工を頑張る10年間が始まるんやけど。
そしてアートと木工の両方をミックスさせてきたというのがこの10年くらいのこと。 だからおじいちゃんや親父が作ってきたそういうものだけでなく、アメーバのような形を作ったり、自然な木をそのまま作り出している感覚というのは、アートをやっていた感覚に近いから、そこがミックスされてきているというような変遷になるかなと。
最高の作品を作る方法

:プロダクトとアートワークのバランスって変わってきたりしてるんですか?
中川:独立してしばらくはプロダクト色が強かった。つまりこれは再現できるもの。 しかしそのあと始まったのは再現性のないもの。 要するにこのスプーンって曲がった木との出会いによってしかできない瞬間のもの。 同じようには作れず一個しかない。だから再現不可能な世界。 アートやってるときはアートの上に立脚して、思想も思考も体の動かし方もアーティストという動かし方をしてた。 デザインしてた時はデザインに立脚した動かし方をしてた。 俺の中では自由にシフトできるようになった。
:マインドセットなども瞬時に変えられるようになったということですか。
中川:午前と午後で変えられるようにはなったね。 でも仕掛けはしてるよね。 例えばプロダクトを作っててもさっき話したように少し変わった形の木を置いておくと、マインドがアートの形にシフトできる。 今が一番自由かな。人生の中で。
:自由である状態と、制限されている状態だったらどちらの方がアイデアが浮かびますか?
中川:どっちもありだけど、制限されている方が良いかな。 例えばA、B、Cと違うアイデアがあってどれがいいか分からないときに、取り返しがつかないギリギリのところでスタートをする。納品1ヶ月前だとAをやってみて失敗したらBというチャンスがまだあるけど、3日前とかにスタートをすると、Aを取ったらもうこのAを成功レベルまでもっていかなあかん。 それがメールの返信が遅い理由ということではないけど(笑)
:(笑)

中川:結局ものには全ていいところがあると思ってるんで、A、B、Cそれぞれ違うものを作ろうとアイデアがあった時に、AよりBが良かったという考え方ではなくて、Aの最高なものを作る、Bの最高なものをつくる。 これらは別個のものであってAが失敗したからBに移れるというものではない。 そして俺が思うレベルを突破できるかできないかが問題。 突破する成長曲線が大事。 Aは一直線でいけるかも知れないけど、Bはカーブしながらしかその突破レベルまでいけないとしたら時間は掛かるよね。 Cはぐにゃぐにゃした道ばかりでもいつか突破できるよね。だから時間があるとそれぞれ取り組んでしまって、AとBとCをちょろちょろやって結局どれも行きつかないみたいなところがあるから逆にギリギリにして突破できるかできないかの勝負をするんだよね。
:中川さんの考えをそれぞれ自分の領域の中で昇華できたら、色々変わるなと思います。
伝えることの難しさ
中川:例えば若い子らに仕事を教える時に、俺の腕を接木できたらいいなと思う時がある。 でも人間はそういうものではなく、必ず種から自分で育てていかないと、真理に触れることができない。 職人が一人前の桶屋になろうとすれば俺がなんぼ教えたとしても、自分の中で種から枝をつけて花を咲かすという作業をさせていかないとものにならない。 本も読むと成長したような気になるけど書き手の思いと相手の受け取ったことにズレが生じるわけよ。100%ズレができる事実がある。結局のところ人間は孤独なのでそこは交換できないし、共有できたと思うことも実は錯覚だと思う。 俺たちはそういう感覚をもって作品を伝えていかなきゃいけないと思う。
:中川さんのものづくりに対する姿勢を知ることができて嬉しく思います。 本日は貴重なお時間をありがとうございました。




